サゴタニ 牛乳。 スタッフブログ

職務経験10年程度のビジネスパーソンを対象としたリカレント教育異業種・異職種の人が集い学ぶ「チェンジ・メイカー育成プログラム」開講

サゴタニ 牛乳

久保社長から久保アグリファームやサゴタニ牛乳さんのお話を聞きました。 昭和16年、サゴタニ牛乳創業者の久保政夫さんが八丈島から23頭の牛を連れて帰ってきたところから始まっています。 船と列車での旅は想像しただけでも凄いです。 そんなことができたのも「人々を牛乳で健康にしたい」というただ一つの思いからです。 あらためて、食の大切さや、土づくり、草づくりから牛乳ができていることを知ることができました。 この様子は11月発行の暮楽人で掲載します。 安佐南区 中古マンション リノベーション• 投稿日:2018年 9月10日• テーマ: 安佐南区の中古マンションを購入してリノベーションされたお客様の取材に行ってきました。 6年ぐらい前から中古マンションを探していたお客様。 住まいに対するこだわりも強く、条件を箇条書きにしたところ30項目くらい出たそうです。 時には新築マンションもいいかと思いだしたそうです。 新築では自分が思い描いているようにはなりそうにないですが、仕方なく妥協して仮契約まで行きそうになったそうです。 しかし、そのタイミングで条件に合ういい物件が見つかりました。 すぐに買付申込書を出して、この物件を購入されました。 そこから弊社にご相談いただき今回のご縁を頂きました。 決め手は担当者の「技術的なアドバイス」と「要望を聞いて頂いた」と言う理由でした。 購入した時はどこにでもありそうな内装でしたが、奥様がこだわった間接照明や小上がりの畳スペースのLDKはとても素敵な空間に仕上がりました。 また、トイレ空間などあちこちに奥様のこだわりを散りばめられた今回のリノベーション。 不動産にしろ、リフォームにしろ運命的な出会いや相性はきっとあるでしょうね。 この事例は次回のに掲載予定です。 中國新聞「住まいる博2018」開催!• 投稿日:2018年 9月 9日• テーマ: 9月8日、9日の二日間、グリーンアリーナにて、中国新聞「住まいる博」に出展しました。 第1回目から出展していますが、昨年は台風とカープの優勝が重なり、あまりお客様に足を運んで頂けませんでしたが、今年は雨にもかかわらずたくさんのお客様にお越しいただきました。 会場には、プリキュアショーや今話題のひょっこりはんが来るとあって、多くの子どもたちも来てくれていましたね。 マエダハウジングブースにも多くのお客様が足を運んで頂き、どうもありがとうございました。 私も何人かの方のご相談にのらせて頂きましたが、やはり来年の増税に向けてぼちぼちご検討の方が増えていますね。 また、中古住宅を購入してリノベーションや実家を二世帯リフォームにしたいという方もいます。 なかなかわかりにくいリフォームですが、このようなイベントでまずは情報収集し、自分たちのしたい生活をぜひ実現してください。 マエダハウジングでは、毎週末各店舗でリフォーム相談を受け付けています。 また、定期的にオープンハウスをお客様のご厚意で開催しています。 本日も中古マンションリノベーションのオープンハウスを開催していましたが、次回は9月15日。 興味がある方はHPからお申込みいただくか、直接ご連絡ください。 これから、暑さも徐々に和らぐでしょう。 来年に向けて住まいのリフォーム、考えてみませんか。

次の

砂谷牛乳/サゴタニミルク (広島県)

サゴタニ 牛乳

県西部を地盤にサゴタニ銘を展開する現役メーカー。 生乳供給は広島市農協・が担う。 当地の牛飼い・市乳処理事業は、その道を戦前の創成期から指導・牽引した久保家に拠るところ大きく、往時の活動は様々な資料に言及される。 かつて小説家を志し広島を離れ、都下に哲学・芸術・外語を学び、病を得て八丈島へ渡るや農業・畜産に邁進。 上京20年の歳月を経て再び故郷の地を踏むと、砂谷村をミルクの里に変えていった、久保政夫氏の実践の歴史だ。 本項は上段に戦後成立の記録、中段には啓蒙・格言標示の仔細と背景、最下段に前史である久保氏の青年時代をまとめる。 帰郷した当地で酪農を始めた久保氏を中核に、有志が相集い砂谷酪農組合を結成。 明治製菓のや、宮島対岸の、統制期には宇品町の広島牛乳(株)へ生乳出荷を行った。 戦後、広島牛乳は経営紛争を来たして頓挫。 もとより独立の機を窺っていた久保氏は昭和25年、組織を砂谷酪農業協同組合に改め大手町にミルクプラントを開設、生産直売「砂谷牛乳」が誕生する。 上掲の赤刷り一合瓶は、丁度この時代だ。 砂谷は十円牛乳の売り出しと、11枚綴り(1本おまけ)の牛乳切符で大好評。 空きビン数千本の盗難など、農家の市場進出を逆恨みした既存業者の妨害にも遭うが、品質本位と生産者価格で堂々と渡り合い、着実に支持を広げた。 久保氏は12ヵ年計画(牧草地造成・乳牛1万頭)の独自構想も温めていた。 そんなところへ、事業融資元の農林中金や県行政より、熱の入った斡旋・要望が舞い込む。 昭和32年、砂谷酪農協は前記の広島牛乳(株)を吸収した県西部酪連()へ加入・統合。 久保氏は連合会長に推される。 指導者と仰がれ思わぬ規模拡大も、これは結果的に砂谷牛乳の歩みを止める毒饅頭だった。 運転資金逼迫のすえ昭和37年、市乳事業は関西酪農協同()に売却せざるを得なかった。 「広域乳業の餌食にはならん、大資本の攻勢が勝つか我々の教育の力が勝つか」の気迫で取り組む久保氏は愕然。 毎日牛乳の企業的な運営方針とも相容れず、38年、久保氏・砂谷酪農協は負債整理の責任を取る格好で連合会を脱退した。 組合員は湯来酪農組合や砂谷農協(現・広島市農協)へ所属を変えた。 久保氏は心機一転、砂谷酪農(有)を立ち上げ、農場に処理施設を据えて「砂谷牛乳」を復活させる。 流通合理化のため、五合瓶(900ml)を積極展開。 「そんな大容量で配達しても客が飲み切れず売れない、砂谷酪農が潰れるのは時間の問題」と囁かれたが、前払いチケット採用で手頃な値段、飲用消費拡大のニーズを捉え大成功を収めた。 上掲の「サゴタニミルク」水色瓶がそれ。 昭和40年代中期、広島営業所は五合瓶のみの取り扱いで回った。 さらに当時、一躍脚光を浴びた不老長寿の野草・の生ジュースが相当の人気を博し、売り上げは牛乳と二本柱を成したという。 毎日売り出される市乳の壜にも「精神の眠っている人は美貌も一しょに眠っている」と赤字で印刷してあるが、片言隻語の中に、久保さんの哲人的、実践的な思考が汲みとれよう。 生産と教育、消費と教育に善意をもって啓蒙がはかられているのだ。 <中略>(久保氏曰く)食物は人間の肉体を作る。 書物は人間の精神を作る。 だから食物は栄養のあるよいものを食べ、寸暇でもあれば良書を読む心がけが大切である。 いっとき合併したのフルーツミルクにも同様の啓蒙瓶が存在、久保氏の発意を汲んだものだろう。 自社広告の枠に囚われない、情熱家の想いが溢れる。 書物の引用・抜粋と、久保氏発案を含む一行警句を、両側面に配置。 砂谷所有の啓蒙トラックは広島市中を走り回る。 久保氏の直言らしい文章は取っ付き易いが、社用車の言葉はなかなか辛辣だ。 農場の集会に用いる大広間には八千冊の蔵書を収め組合員に解放、まるで農村図書館のようだったという。 近年流通を確認できたのは以下の通りで、かなりのバリエーションがある。 『真の芸術には予備校はない ただ実力の修得があるのみである』、これはゲーテの言葉だ。 村一番の資産家、屈指の大地主という恵まれた家柄で学業成績も優秀、将来は医師となるべく期待された。 しかし若き日の政夫氏は文学に傾倒。 父親の大反対をものともせず県下トップの(旧制)中学校を退学し、大正12年、作家の夢を抱いて上京に踏み切る。 そうして都下の高名な外国語学校、音楽学校に籍を置き、思索・創造の世界に没頭した。 学ぶにつれ、机上・身辺の私小説に終始する日本文学へ不満を感じ、「直接社会と繋がる、生産の場から生まれた作品」を志向。 掌編をいくつか仕上げたものの、上京以来の生活変化が悪く出たか、幼少より虚弱の身に腎臓病を患っていた。 政夫氏は健康回復と自立を模索。 友人曰く「療養には栄養豊富な牛乳が良い、八丈島なら安く飲める」。 昭和5年当時、東京では一升1円。 これが八丈に行くと、たった6銭という。 島には何の伝手もない。 しかし政夫氏は島に渡って農業・畜産による自給自活を決心、連絡船に乗り込んだ。 その船内で島の神港部落にある素封家の娘さんと知り合い、八丈に着くや望外の好意で居候を許され、新しい生活が始まる。 温暖な気候と食生活改善で体調を回復すると、土地を借りて山林開墾に着手。 本で勉強しながら野菜を作り、島内で販売。 空き家を買って自前の住居を確保し、牛と鶏も入れた。 政夫氏は開墾時の厄介者、地表を覆う火山岩を用い、高さ3mの防風垣を構築。 のち「城塞栽培」「万里の長城」と賞賛される方法で、栽培品種・収量増加を実現。 島での成育は不可能だったスイカやトマト、キュウリが大評判。 船便のしおれた青果物を駆逐、新鮮な野菜は飛ぶように売れた。 八丈西瓜は本土へも移出、余所の倍の値段を付ける。 渡島3年のうちに事業は確立。 牛舎建設・乳牛増頭して搾乳販売、八丈練乳()にも生乳出荷。 当初「新参者の百姓が…」と冷笑した島民も、創意工夫で結果を出す若者の評価を改め、久保先生として指導を仰いだ。 そんな折、郷里から妹の訃報が届いた。 過日、結核罹患・重篤の報を受け「島へ療養に来い」と返信も、父や兄の反対で実現しなかったのだった。 葬儀のため20年ぶりに帰った砂谷村は、進歩なく衰え、貧しさが覆い、実家は土地を切り売り、没落の兆しが見えた。 「島に来いと言う前に、この砂谷で八丈以上の理想を実現すべきだったか」早逝の妹を哀れむ気持ちは、新たな決断を迫る。 昭和16年、久保夫妻は八丈島の成功を投げうち、ホルスタイン23頭を引き連れ、砂谷村へ。 開拓・酪農導入の苦闘3年、ここでも周囲の冷笑はやがて尊敬に転化。 政夫氏の教導で乳牛飼育の輪が広がり、久保農場は村の中核的存在となっていく。 電話帳の確認は平成19年時点。

次の

久保アグリファーム サゴタニ牛乳 取材

サゴタニ 牛乳

県西部を地盤にサゴタニ銘を展開する現役メーカー。 生乳供給は広島市農協・が担う。 当地の牛飼い・市乳処理事業は、その道を戦前の創成期から指導・牽引した久保家に拠るところ大きく、往時の活動は様々な資料に言及される。 かつて小説家を志し広島を離れ、都下に哲学・芸術・外語を学び、病を得て八丈島へ渡るや農業・畜産に邁進。 上京20年の歳月を経て再び故郷の地を踏むと、砂谷村をミルクの里に変えていった、久保政夫氏の実践の歴史だ。 本項は上段に戦後成立の記録、中段には啓蒙・格言標示の仔細と背景、最下段に前史である久保氏の青年時代をまとめる。 帰郷した当地で酪農を始めた久保氏を中核に、有志が相集い砂谷酪農組合を結成。 明治製菓のや、宮島対岸の、統制期には宇品町の広島牛乳(株)へ生乳出荷を行った。 戦後、広島牛乳は経営紛争を来たして頓挫。 もとより独立の機を窺っていた久保氏は昭和25年、組織を砂谷酪農業協同組合に改め大手町にミルクプラントを開設、生産直売「砂谷牛乳」が誕生する。 上掲の赤刷り一合瓶は、丁度この時代だ。 砂谷は十円牛乳の売り出しと、11枚綴り(1本おまけ)の牛乳切符で大好評。 空きビン数千本の盗難など、農家の市場進出を逆恨みした既存業者の妨害にも遭うが、品質本位と生産者価格で堂々と渡り合い、着実に支持を広げた。 久保氏は12ヵ年計画(牧草地造成・乳牛1万頭)の独自構想も温めていた。 そんなところへ、事業融資元の農林中金や県行政より、熱の入った斡旋・要望が舞い込む。 昭和32年、砂谷酪農協は前記の広島牛乳(株)を吸収した県西部酪連()へ加入・統合。 久保氏は連合会長に推される。 指導者と仰がれ思わぬ規模拡大も、これは結果的に砂谷牛乳の歩みを止める毒饅頭だった。 運転資金逼迫のすえ昭和37年、市乳事業は関西酪農協同()に売却せざるを得なかった。 「広域乳業の餌食にはならん、大資本の攻勢が勝つか我々の教育の力が勝つか」の気迫で取り組む久保氏は愕然。 毎日牛乳の企業的な運営方針とも相容れず、38年、久保氏・砂谷酪農協は負債整理の責任を取る格好で連合会を脱退した。 組合員は湯来酪農組合や砂谷農協(現・広島市農協)へ所属を変えた。 久保氏は心機一転、砂谷酪農(有)を立ち上げ、農場に処理施設を据えて「砂谷牛乳」を復活させる。 流通合理化のため、五合瓶(900ml)を積極展開。 「そんな大容量で配達しても客が飲み切れず売れない、砂谷酪農が潰れるのは時間の問題」と囁かれたが、前払いチケット採用で手頃な値段、飲用消費拡大のニーズを捉え大成功を収めた。 上掲の「サゴタニミルク」水色瓶がそれ。 昭和40年代中期、広島営業所は五合瓶のみの取り扱いで回った。 さらに当時、一躍脚光を浴びた不老長寿の野草・の生ジュースが相当の人気を博し、売り上げは牛乳と二本柱を成したという。 毎日売り出される市乳の壜にも「精神の眠っている人は美貌も一しょに眠っている」と赤字で印刷してあるが、片言隻語の中に、久保さんの哲人的、実践的な思考が汲みとれよう。 生産と教育、消費と教育に善意をもって啓蒙がはかられているのだ。 <中略>(久保氏曰く)食物は人間の肉体を作る。 書物は人間の精神を作る。 だから食物は栄養のあるよいものを食べ、寸暇でもあれば良書を読む心がけが大切である。 いっとき合併したのフルーツミルクにも同様の啓蒙瓶が存在、久保氏の発意を汲んだものだろう。 自社広告の枠に囚われない、情熱家の想いが溢れる。 書物の引用・抜粋と、久保氏発案を含む一行警句を、両側面に配置。 砂谷所有の啓蒙トラックは広島市中を走り回る。 久保氏の直言らしい文章は取っ付き易いが、社用車の言葉はなかなか辛辣だ。 農場の集会に用いる大広間には八千冊の蔵書を収め組合員に解放、まるで農村図書館のようだったという。 近年流通を確認できたのは以下の通りで、かなりのバリエーションがある。 『真の芸術には予備校はない ただ実力の修得があるのみである』、これはゲーテの言葉だ。 村一番の資産家、屈指の大地主という恵まれた家柄で学業成績も優秀、将来は医師となるべく期待された。 しかし若き日の政夫氏は文学に傾倒。 父親の大反対をものともせず県下トップの(旧制)中学校を退学し、大正12年、作家の夢を抱いて上京に踏み切る。 そうして都下の高名な外国語学校、音楽学校に籍を置き、思索・創造の世界に没頭した。 学ぶにつれ、机上・身辺の私小説に終始する日本文学へ不満を感じ、「直接社会と繋がる、生産の場から生まれた作品」を志向。 掌編をいくつか仕上げたものの、上京以来の生活変化が悪く出たか、幼少より虚弱の身に腎臓病を患っていた。 政夫氏は健康回復と自立を模索。 友人曰く「療養には栄養豊富な牛乳が良い、八丈島なら安く飲める」。 昭和5年当時、東京では一升1円。 これが八丈に行くと、たった6銭という。 島には何の伝手もない。 しかし政夫氏は島に渡って農業・畜産による自給自活を決心、連絡船に乗り込んだ。 その船内で島の神港部落にある素封家の娘さんと知り合い、八丈に着くや望外の好意で居候を許され、新しい生活が始まる。 温暖な気候と食生活改善で体調を回復すると、土地を借りて山林開墾に着手。 本で勉強しながら野菜を作り、島内で販売。 空き家を買って自前の住居を確保し、牛と鶏も入れた。 政夫氏は開墾時の厄介者、地表を覆う火山岩を用い、高さ3mの防風垣を構築。 のち「城塞栽培」「万里の長城」と賞賛される方法で、栽培品種・収量増加を実現。 島での成育は不可能だったスイカやトマト、キュウリが大評判。 船便のしおれた青果物を駆逐、新鮮な野菜は飛ぶように売れた。 八丈西瓜は本土へも移出、余所の倍の値段を付ける。 渡島3年のうちに事業は確立。 牛舎建設・乳牛増頭して搾乳販売、八丈練乳()にも生乳出荷。 当初「新参者の百姓が…」と冷笑した島民も、創意工夫で結果を出す若者の評価を改め、久保先生として指導を仰いだ。 そんな折、郷里から妹の訃報が届いた。 過日、結核罹患・重篤の報を受け「島へ療養に来い」と返信も、父や兄の反対で実現しなかったのだった。 葬儀のため20年ぶりに帰った砂谷村は、進歩なく衰え、貧しさが覆い、実家は土地を切り売り、没落の兆しが見えた。 「島に来いと言う前に、この砂谷で八丈以上の理想を実現すべきだったか」早逝の妹を哀れむ気持ちは、新たな決断を迫る。 昭和16年、久保夫妻は八丈島の成功を投げうち、ホルスタイン23頭を引き連れ、砂谷村へ。 開拓・酪農導入の苦闘3年、ここでも周囲の冷笑はやがて尊敬に転化。 政夫氏の教導で乳牛飼育の輪が広がり、久保農場は村の中核的存在となっていく。 電話帳の確認は平成19年時点。

次の